顯 國 神 社 の 御 由 緒 | |
当社創立の縁起は、「人皇代五十代桓武天皇延歴20年(西暦801年)坂上田村麿将軍詔を奉じて下降し霧崎菖蒲卿に至り海面を望めば靈龜三波間に浮かび出で将軍に向かって物言ふが如く暫時にして又海中に沈む其の挙動奇異なるを以って小濱の海士をして海底を探らしめしに大中小の霊玉を得たり光鏡の如く将軍喜悦之を拝戴して爰に詞を建設し大なるを大国主命として主神となし中小を須佐男命奇稻田姫神として配祀して大国大明神と號し此の所 の鎮守と仰ぎ人民と共に厚く禮祭を行ふ之を聞き傳へ遠近の人々参拝祈る處必ず感応あらざるなし。」と伝えられている。 延暦20年(西暦801年)10月、坂上田村磨が紀伊國有田郡霧崎菖蒲の里に到って三神を崇敬し、正殿を造営して大國主大明神と称して祀ったのが当神社の創建である。 その後、土豪湯浅権守藤原宗重が神々に対する尊信の念が厚かったことから、第76代近衛天皇天養元年(西暦1144年)10月、湯浅村に社地を定めてこの森へ神殿を遷して顯國明神と改称した。 宗重は社地祭祈料として田園を寄進するとともに湯浅城鎮護の神社、有田郡の総鎮守大社と仰ぎ奉られた。 寛文8年(西暦1668年)12月、紀州徳川家初代藩主頼宣より顯國大明神の社号を授かり、藩儒李梅溪に命じて華表の扁額を書かしめたという。その後、江戸へ発着毎に参詣する等厚く崇敬され、これが先規となり廃藩の際まで歴代藩主より鄭重に取り扱われた。 社記によると、延宝4年(西暦1676年)には第二代光貞(清溪院)、安永5年(1776年)には第九代治貞(香巌院)、寛政6年(西暦1794年)には第十代治宝(舜恭院)、寛政11年(西暦1799年)と享和3年(西暦1803年)には当時隠居中であった第八代重倫(観自在院)が参拝している。 明治15年11月、有栖川幟仁親王殿下の御筆である社名の額が奉納されている。 明治16年4月、村社に列し、同40年6月神饌幣帛料供進神社に指定された。昔、田中九郎助という者、馬を社前に集めて流鏑馬をしたのが、馬寄せの始めであると伝えられている。社域・社殿ともに郡内でも宏壮であることから一般に「大宮さん」と呼ばれた。 明治の合祀令より当神社に祀られた神社は、若宮神社、若恵比須神社、神明神社、稲荷神社、諏訪神社、久米崎神社、天神社、金比羅神社、疱瘡神社、住吉神社、妙顯神社がある。 当神社の鎮守の森は、昔から「一夜の森」や「暁の楓」と呼ばれ、南紀湯浅誌の湯浅古跡に名を載せている。一夜の森については、古くから神社鎮座の森なりと言い伝えられており、平安時代から鎌倉時代にかけて、熊野街道き方寸峠を南に下って、この付近から別所に出るのが本筋であったので、この森は古熊野往還に沿うていたのである。往時はなお広大な敷地であったので、土俗は一の森といっていたものが、一夜の森と転訛したという説がある。暁の楓も一夜の森にあった楓の樹の雅称で、森の中で特に趣を添えてからだといわれている。 |
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江戸時代の顯國神社 |
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明治時代の顯國神社 【明治18年 名勝豪商案内記より】 |
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大正時代の顯國神社 |
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昭和時代の顯國神社 【昭和3年】 |
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皇紀2600年記念式典(顯國神社) 【昭和15年】 |
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